連続民藝談義
民藝の「民」について(上)
丁章です。どうぞよろしくおねがいします。
連続民藝談義「民藝の『民』について」と題しまして、これから毎回、私が民藝について語ってゆくことになりますが、まず今日は第1回ということでもありますので、私の自己紹介もかねながら、私にとっての民藝について話してゆきたいとおもいます。今日の話は連続談義の序章のような話になるかとおもいます。拙い話ですが、どうかしばらくのあいだおつきあいください。
私にとって民藝とは何かといいますと、それは「生いたち」そのものだといえます。ではその生いたちがどのようなものであるかということですが、それはまず、私の両親が民藝と、いつ、どのように出逢ったかというところまでさかのぼってみなければなりません。
まず、私の父のことですが、父の出生地は、東大阪の、まさにいま私たちがいるこの地でして、父の父、つまり私の祖父から父が相続した土地の上に、いまこの喫茶美術館も建っています。父の実家はかつて町工場を営んでいて、現在伊古奈が建っているところがその工場跡地になります。祖父は戦前に半島からこの列島に渡ってきた在日コリアン一世で、戦後すぐに工場をはじめましたが、そのかたわら、朝鮮の骨董を扱う仕事もしていたといいます。祖父のその骨董趣味が、のちの父に影響を及ぼしたのかもしれません
父は1940年にこの地で生まれ、小学校から高校を卒業するまで日本の公立校に通った在日二世です。父が小学校に上がった年は、ちょうど戦後の教育基本法が施行された47年ですから、父は戦後民主主義教育の第一期生だといえます。
私の祖父は父が高校生のときに交通事故で亡くなってしまいます。ですから高校を卒業後、早稲田大学夜間部の東洋史学科に進学した父は、学業のかたわら、昼間は、実家の工場で製造された建築工具などを販売する仕事も始めます。つまり家業の東京支店のような仕事です。父は東京でそのような下宿暮らしをはじめますが、当時は東京オリンピックや新幹線、高速道路など、いわゆる建設ラッシュですから、父の商売はうまくいっていたようです。そしてもうその頃から父は食道楽でしたから、東京で評判の食事処をいろいろ食べ歩いていました。或る日、新宿の民藝茶房「すずや」ののれんもくぐります。「すずや」は今では「トンカツ茶漬け」で有名な店ですが、当時は民藝食事処として有名でした。じつはそこで大学生だった父は、初めて民藝と対面することになります。「すずや」の店内に飾られ、また使われている民藝品の数々に接して、かねてからの民藝ブームでおぼろげながら知っていた民藝の世界を初めて体験したようです。しかしながら、そのときはまだ、民藝とたまたま知り合った程度の認識でしかありません。民藝と出逢ったといえるにはほど遠い対面でした。
67年、27歳のとき、見合いで、年下の京都の在日二世の女性と婚約します。それが私の母ですが、母は戦後生まれで、教育も日本の公立校に通い、京都の私立の短大に進学して、お茶やお花のたしなみもある女性になりました。そしてそのような父と母との出逢いが、二人に民藝との出逢いも与えることになります。
私の両親が初めて民藝と出逢うのは、およそ40年前、結婚した二人が、東京目黒での新婚生活を始めるにあたって、食器類を買いそろえるため、銀座にショッピングに出掛けたときのことでした。有名な民藝店があるとのかねてからの噂を耳にしていた父が、母を誘って探して行ってみたのが、まさに民藝店「たくみ」でした。そのとき母は、「たくみ」の店内に並べられた益子焼のあたたかみに一目惚れしたのだそうです。そしてそれ以来、わが家の食器は益子焼でそろえられました。そのときに買った器が今もわが家には残っています。
このように「たくみ」で民藝と出逢った両親は、その後、民藝の世界にどんどん引き込まれてゆくことになります。
こうして私の両親が、民藝店で民藝と出逢ったように、「民藝店」というのは、ただ民藝品を展示販売するところとしてあるだけでなく、民藝の世界への窓口、そして民藝運動の拠点として、各地の民藝館と共に、その役割を担っているものだといえます。
さて、私の両親が初めて出逢った民藝店は銀座の「たくみ」でしたが、それ以来、民藝ファンとなった二人は、多くの民藝店に通い始めます。その頃は民藝ブームの熱がまだ冷めやらぬときですから、民藝店の多くもまだまだ健在でした。
赤坂の民藝店「つかもと」の、店内階段の両壁にある飾り棚で、濱田庄司、河井寛次郎の作品と共に並んでいた、島岡達三の作品を二人は初めて目にします。ただ、そのときはまだ、二人には作家ものを買うつもりはありませんでした。しかし、それから数年間、民藝店や百貨店の美術画廊をいろいろ見て回るうちに、とくに父がやはり欲しくなったのでしょう、71年の暮れ、かねてから親しくしていた中野の民藝店「あじろ」で、島岡達三の作品を初めて手に入れました。島岡先生の作品は当時でも安くはありませんでしたが、それでも思い切って買うことにしたきっかけは、わが家の引っ越しでした。それまで四人家族だったわが家に、新たに三人目の子どもが生まれることになり、新婚以来暮らしていた目黒のマンションでは手狭になるため、同じ目黒にある別の新築マンションに引っ越しすることになりました。引っ越したばかりの新しい家で初めて迎える正月は、やはり立派なものにしたいという想いから、両親は、正月飾りに梅の花を飾ろうということになり、その花瓶として、父が「あじろ」で、島岡先生の地釉櫛目象嵌壺を買ったのが、わが家の島岡達三作品蒐集のはじまりです。
またこの引っ越しのときに、家具も新たにそろえることになり、その家具をすべて中央民藝の松本民藝家具でそろえたことが、わが家と松本民藝家具との出逢いとなりました。このとき松本民藝家具を買いそろえるにあたって、中央民藝に父を紹介してくれたのも「あじろ」のおかみさんでした。このようにわが家にとって民藝店「あじろ」は、島岡達三と松本民藝家具を、わが家に引き合わせてくれた良き仲人でした。
わが家と「あじろ」との縁は、これもまた、父の食道楽にゆえんします。荻窪に「春木屋」という、食通なら誰でも知っているラーメン屋がありますが、父はそこの常連客で、新婚当時も母を連れて車でよく出掛けてゆくのですが、その荻窪までの道の途中の青梅街道沿いに「あじろ」はありましたから、民藝にそのころ興味を持ち始めた二人の目にとまって、一度入ってみようということになり、それ以来、「あじろ」には「春木屋」とセットで、出掛けてゆくようになります。店内を現在のように改装する以前の、当時の「春木屋」には、店の奥に家族連れのための畳部屋がありましたので、幼い私たちも両親に連れられてゆき、「春木屋」のラーメンとワンタンが大好きでしたが、「春木屋」での食事のあとに必ず連れてゆかれる「あじろ」もまた、子どもながらに愉しみ多い空間でした。床から天井まで民藝品で覆い尽くされた店内を、幼い子どもの低い視点から見回すと、それはまるで、好奇心をそそられる、おとぎの空間にいるようなそんな気になるものでした。むろん店内には郷土玩具もあちらこちらにたくさんちりばめられていますから、それらの見本のおもちゃで遊ぶのも、子どもにとっては大きな愉しみのひとつでした。
このようにして民藝店「あじろ」は、わが家にとっての民藝のふるさととして、その後もずっとありつづけました。しかしその「あじろ」も、おかみさんの逝去に伴い、店じまいとなってしまいました。このように昨今、各地の民藝店の老舗が店じまいしてゆくことは、ただ寂しいというだけでなく、民藝の拠点、民藝のふるさとを失ってゆくことなのだと、そうおもいます。
さて、ちょうどこの頃、父は株式投資をはじめました。もともと商才があって、射幸心の強い人ですから、すぐに熱中します。そして幸か不幸か、株でも順調に儲けつづけます。いつしか本業よりも株での儲けのほうが大きくなり、額面も億円単位になってくると、父の生活が株の取り引き一辺倒になってゆき、狂いが生じはじめます。それでも儲かっているうちはいいのですが、いつの時代もあぶく銭は身につきません。第二次オイルショックで株が急落します。株の取り引きで膨張するあぶく銭にのぼせ、本業をおろそかにしていた父は、東京での暮らしをそのとき一瞬にして失ってしまいました。
75年、家族を連れて都落ちした父は、この東大阪の実家の土地に、借金をして店舗付きの家を建て、夫婦で営めるテーブル七卓の小さなおこのみやき屋をはじめました。それが「伊古奈」のはじまりです。
再出発となる東大阪での生活のために、両親がおこのみやき屋の仕事を選んだのは、食道楽を自認する父の味覚への自信と、「おこのみやき」という大阪の地に根付いた食べ物ならば、はやりすたりがなく、商売も長くつづけてゆけるとの考えからでした。やるからには本物の味わいにこだわる店にしたい。そのような想いから、食材はもちろん、食器や調度品も本物でそろえることにします。そして両親にとって、その本物とは「民藝」そのもののことでした。
食器は益子焼で、調度品は松本民藝家具でそろえることにしたのですが、そこで中央民藝に鉄板テーブルを特注したところ、鉄板の火の熱で木が焦げてしまうはずだから無理だということで、はじめは断られました。しかしあきらめきれない父は、大阪日本橋の道具屋筋の職人に依頼して、防熱の方法を見つけてもらい、それによって中央民藝を再度説得して、ようやく注文を受けてもらったのだそうです。このときから、わが家と中央民藝との縁がはじまることになりました。
父の食道楽はダテではなかったようで、伊古奈はしばらくすると繁盛し出します。営業時間も当時は夜中の二時三時まででしたので、両親はむろん、たいへんだったでしょうが、私たち幼い子どもたちもたいへんでした。両親は仕事が終わって寝床に入るのが明け方ですから、二人は昼まで眠っています。ゆえに、小学生だった私たちは、朝食を自分たちだけでとらなければなりませんでした。夜も営業中は、両親は店にいますから、おのずと子どもたちだけでの夕食です。家族そろって食事をとれるのは、週に一度の定休日くらいしかありません。それでは子どもたちがあまりに不憫ですから、両親は厨房の片隅で私たちに夕食をとらせたりすることもあり、それはそれで子どもにとっては楽しい想い出でとなりました。
そのように家族で苦労した甲斐あって、新たにはじめたおこのみやき屋の商売もうまくゆきだしました。そしてその頃から、父は新たに大きな夢を抱くようになります。それが民藝美術館を造りたいという夢でした。しかしこのときはまだ、あこがれの想いによって抱く夢に過ぎませんから、何かしっかりとした計画があるわけでもなく、父の頭の中で夢だけが、ただふくらんでゆくだけです。しかしながら民藝美術館設立という共通の夢を両親が抱くことによって、わが家の生活や人生の指針がこのとき自ずと定まったような気がします。
それにしても、父がどうして美術館を造りたいとの夢を抱くようになったのかということを、私はよく考えます。父の美への欲求ははたしてどこからくるものなのか。
たとえば魯山人が、母親の不倫によって生まれたという自らの出自の醜さへの反動として、美を求めたということはよく言われることです。幼くして養子に出された魯山人はその出自のためにおぞましい虐待、差別をうけたといいます。魯山人がその出自によって心に抱え込まされた醜さや貧しさの闇を、美しさや豊かさの光で満たそうと欲し、そしてその醜さと貧しさの闇が大きければ大きいぶんだけ、魯山人の心を光で満たすための美しさと豊かさは、より質の優れて、なおかつ、膨大な量を必要としたはずです。出自によって抱え込まされた巨大な闇が、魯山人をあのような美の巨人へと育て上げたともいえます。
それでは、私の父にとって、美によって埋めなければならないものは何だったのでしょうか。いうまでもありません。それは在日朝鮮人という出自の闇です。父や母が幼かった時代は、今からは想像できないほど在日に対する差別が、あからさまにひどかった時代です。この日本社会において、在日朝鮮人といえば、醜さと貧しさの象徴のように言われることもあったほどです。そのような時代に、両親は自らの不遇な出自を覆い隠すように、日本人らしさを身につけてゆきます。日本人よりも日本人らしく努めることで、美しくて豊かな暮らしを手に入れようとしました。つまり、この日本社会で美しくて豊かな暮らしを手にいれるためには、日本人よりも日本人らしく生きなければならなかった在日がいたということです。そして両親は、朝鮮の文化はハングルの一字も知らない、知ろうとしない在日朝鮮人となりました。
そのような両親にとって、民藝の世界は、出自の闇に光を与えてくれる、美しくて豊かな、あこがれの世界にほかなりませんでした。のちに抱くことになった「民藝美術館を造りたい」という、その夢の大きさは、まさに両親が抱える在日朝鮮人としての闇の大きさに符合するものだったのだとおもいます。
東大阪での商売が軌道に乗り、生活の心配が無くなると、両親は東京で知った民藝の世界を、ふたたび追い求めるようになります。東京時代の株での失敗で、父は金儲けの虚しさを知りました。しかしだからといって、夢の無い生活もまた、虚しいものです。そして両親がはじめたのが、島岡達三作品の蒐集でした。
その頃父が想い描いていた民藝美術館は、島岡達三作品館のようなものだったのだとおもいます。この頃から父はすでに、将来、島岡先生は必ず人間国宝になるはずだと信じて疑いませんでした。そして島岡先生が人間国宝になれば、美術館設立も実現に向けて容易になるだろうし、自らが信じる「物の見方」「美を見る眼」の正しさや確かさを世の中に証明できると考えていたのだとおもいます。
父は、のめり込みの激しい性格ですから、その蒐集ぶりは、まるでわが家の生活が、島岡作品の蒐集のためにあるかのような様相と呈してゆきます。幼い私の目には、まるで家計のほとんどすべてを蒐集のためにつぎ込んでいるように見えました。しかしながら、そのように、たとえわが家の商売が繁盛していたとはいえ、所詮はおこのみやき屋の小銭稼ぎでしかありませんから、生活のすべてをつぎ込みでもしなければ、これだけの数の島岡作品を蒐集することは到底できなかっただろうとおもいます。そのような民藝一辺倒のわが家の生活が、子ども心に恨めしく想うことも多々ありましたが、それでも両親が、のちに島岡達三作品の蒐集家として世に知られるようになったとき、両親と共に生活し、協力してきた私にとっても、それはやはり誇らしいことでありました。島岡先生が来阪の折りに、初めてわが家を訪問されたときに、「ああ、この作品はここに来てたのか」といって喜んでくださったことなど、今も忘れられない想い出です。
また、わが家が司馬遼太郎さんと近しくなれたのも、近所に「民藝美術館を造りたい」という夢を追いかけている人がいるという噂に、司馬さんが興味をもたれたことがきっかけのひとつでした。そしてのちの87年に、司馬さんの仲介を得て、須田剋太画伯と出逢い、翌年の88年、司馬さんと須田さんのご協力により、両親はとうとう、この「喫茶美術館」という名の民藝世界を造り上げ、その念願の夢を果たします。両親はむろん、有頂天なほど喜んでおりましたし、当時大学生になったばかりの私も、やはり嬉しくおもったものです。しかしそれでいて私は、じつは、素直に喜べない複雑な心境でもありました。何か虚しい気持ちが私の心から離れません。その虚しさがどこからくるものなのか、そのあとすぐに私は知ることになります。それはわが家が出自を隠しつづけ、なおざりにしてきたために、いつまでも解放されずに苦しんでいた私の心の中の朝鮮からくるものでした。
この喫茶美術館ができたときに、開館の案内状をマスコミなどに送るにあたって、司馬さんから父に、ひとつの助言がありました。その助言はこのようなものでした。
「これを機会に、大島君も、本名を名のったらどうかな」
その司馬さんの助言に対する父の答えはこうでした。
「私にはできません」
そしてその父の答えに、司馬さんは、
「ああ、大島さんが抱えているものはそれほど重いものなんだね」
と、そうおっしゃったといいます。
司馬さんと父との間で、このようなやりとりがあったということを、あとで母から聞いたとき、私は、わが家にとって、民藝とはいったい何だったのかと、愕然たる想いがしました。
「大島」という名は、かつて日本帝国が朝鮮を植民地にしていた時代に施行された「創氏改名」政策を起源とし、両親が今なお使いつづけている通名です。日本の朝鮮侵略という過去の歴史の過ちによって産み出された通名、その「偽りの名」、「醜い名」を名のりつづける父が民藝について語る、その「本物」や「美しさ」とはいったい何なのか。私はそのようにして、父の「物の見方」「美を見る眼」に疑いをもたざるを得ませんでした。たしかに、その後の96年には、島岡先生が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、父の眼の確かさは証明されました。しかしそのわが家の美しさや豊かさの裏側には、在日朝鮮人が抱える出自の闇がひそんでいて、両親にとっての「美」とは、その自らが抱える在日朝鮮人としての出自の闇を隠蔽するものでしかなかったのではないか。そしてそのようにして得られた「美しさ」や「豊かさ」が、はたして真の「美しさ」や「豊かさ」であり得るのだろうか。本当の「美」とは、人間が抱える闇に光を照らし、苦しみの闇から人間を救いだすために、幸せの道へと正しく導くその力でなければならないのではないか。そのように想うとき、私はわが家の「美」が、いかに虚しいものであるかを想い知りました。そして両親が追い求めた、日本の美しさや豊かさとしての民藝が、私にとっては疎ましいもの以外の何ものでもなくなってしまいます。民藝で満たされたわが家が、私には耐えられなくなり、とうとう私は家を出てしまいました。このときの私にとって民藝とは、「日本の伝統工芸」という程度の認識でしかありません。私はこのとき「民藝」がいかなるものかを、まだ何も知らなかったのです。
そのように、わが家の「美」の虚しさに耐えられなくなって家を出た私は、文学の道を志しました。文学の力こそが、私の在日朝鮮人としての心の闇に光を照らし、私を救ってくれるものだと信じたからでした。
私は、それまでの日本人らしい生活によって隠蔽されてきた自らの本当の出自である在日朝鮮人らしさを追い求めて、朝鮮にかかわる書物を、大学の図書館にこもっては、片っ端から貪るように読みあさりました。読書は、自らが抱える闇に光を照らしてくれるものです。そしてそのような読書の日々をつづけるうちに、或る日私は、朝鮮に尽くした人物として「柳宗悦」の名に出くわすことになります。
柳宗悦が書いた「朝鮮人を想う」や「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」などの朝鮮にかんする一連の文章を、私はまるで自分に向けて語りかけられているような深い感動をもって読み進めました。そして私は遅まきながら、ようやく、柳宗悦が「民藝」の生みの親であることを知り、そしてその民藝が、朝鮮の藝術や民衆への想いを原点にしているということを知ります。
柳宗悦は、もともと李朝の陶磁器の美に惹かれていました。浅川伯教・巧兄弟との出逢いによって、柳は朝鮮の美の蒐集をはじめます。しかしその蒐集が本格化するきっかけは、1919年の朝鮮三・一独立運動でした。朝鮮の民が日本帝国の弾圧に抵抗するその姿を知って、三十歳にして柳は、民衆というものを強く自覚したのだと私はおもいます。柳は晩年、「四十年の回想」という文章の中で、日本が朝鮮を支配していた当時の、日本人蒐集家と自らの蒐集について次のようなことを言っています。
朝鮮在住の日本人の中には、朝鮮人と違って蒐集家がなかなか多かった。(略)しかしよくよく見ていると、それらの蒐集家は朝鮮の品々が好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのでもなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない事が判り、これが私を憤慨させた。結局それらの人々のはただ利己的蒐集で、朝鮮に対しては何も尽くさず、少しも報恩の志がないのである。その頃は万歳事件のあとで、朝鮮人は極度に弾圧され、全体からすれば朝鮮文化の破壊が遠慮なく行われていた時期であった。それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した。それがまた朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以とも考えられた。品物だけを愛し、その生みの親たる民族を尊敬しないのは不合理だと思えた。
「民藝」という言葉は、柳宗悦が濱田庄司、河井寛次郎と共に作った造語で、「民衆的工藝」という意味を表していますが、その「民藝」に宿る柳の、このような朝鮮民族の民衆と工藝への想いを知って、民藝の美が、人間が抱える闇の醜さを隠蔽するための欺瞞の美では決してなく、権力支配に虐げられる民衆のために尽くす抵抗の美でもあったことを私は初めて知り、そしてそのときになって初めて私は、ついに「民藝」と出逢うことができたのでした。
こうして私は、一度は疎ましくおもい、忌避したわが家の「民藝」を、ふたたび受け入れる決意をして、この家に帰ってきました。もし両親の蒐集が、たとえば魯山人の世界だったとしたならば、私はこうしてわが家に、ふたたび戻ってくることはなかっただろうとおもいます。
人間にとって自らの出自を受け入れられないことほど不幸なことはありません。私が在日サラムとして、私の「生いたち」であり「ふるさと」である民藝の世界に戻ってこれたことは、まさに幸いなことにちがいありませんでした。
そして、朝鮮の品物から受ける恩義に酬いるため、朝鮮に尽くした柳宗悦の「民藝」に対して、今度は在日朝鮮人の私がその恩義に酬いなければなりません。
今では私は、父の民藝品に対する「物の見方」「美の眼」は、やはり正しく確かなものだったのではとおもっています。なぜなら、父は民藝の根底に宿る朝鮮をちゃんと感じ取っているからです。でなければこれほどまで民藝を追い求めることはできなかったのではないでしょうか。父が追い求めたものは民藝に宿る朝鮮だったのでなかろうか。父のその欲求が無意識、無自覚なものであるからこそ、なおさら私にはそう想えてしかたありません。
しかしながら父には、その民藝品に込められた民藝の心、民藝の言葉を「読みとる眼」はありませんでした。私が、これからもこのわが家の民藝を守ってゆくとき、両親には見ることができない民藝に宿る言葉の意味を、両親に代わって読み上げてゆかなければならないとおもいます。それが言葉をつむぐ在日サラムの詩人として、私が民藝のためにしなければならない仕事であり、そのことによってわが家の民藝が、「もの」と「こと」とが共に宿る、本物の民藝として在りつづけることができるのだろうとおもうのです。
そしてこのたび、こうして「民藝を知る会」をはじめることになりました。これから先、皆様と共に民藝について、知り、考え、語り合い、民衆的交流を深め合ってゆければと願っております。
ではこれで、今日の私の拙い話はおしまいです。連続談義「民藝の『民』について」次回は、「柳宗悦の『民』について」もう少し詳しく語る予定にしています。
それでは次回をおたのしみに。どうもありがとうございました。
連続民藝談義
民藝の「民」について(下)
それでは連続民藝談義「民藝の『民』について」ということで第1回の話にひきつづき、民藝にとっての民衆とは何かということについて、私なりに考えたことを話してゆきたいとおもいます。
前回の話は、在日という出自を隠そうとする両親と、出自を公にしようとする私との、その両者の葛藤を抱えた我が家の民藝物語を例にとって、ほんとうの美とは何か、それは人間が抱えている闇を覆い隠すためのものでは決してなく、その闇に光を与えるものであるはずだという、そのような話でした。
それでは、民藝にとっての光を与えるべき闇とはいったい何だったのかということなのですが、やはり、民藝が生み出された当時の、社会や時代が抱えていた闇ではなかったのか、と私はおもいます。
柳宗悦が「民藝の美」を発見したきっかけが、朝鮮の三・一独立運動であったということは、前回もお話ししました。
三・一独立運動が起こった1919年当時の世界情勢は、前々年の17年にロシア革命が起こり、その翌年の18年にシベリア出兵とそれにともなう米騒動、そして11月に第一次世界大戦が終結します。パリ講和条約にも影響を与えたウィルソン14ヵ条の「民族自決権」に触発された朝鮮民族の学生志士たちが、19年の2月8日、まず東京で独立宣言のための集会を開き、そこで読み上げられたその独立宣言書が玄海灘を密かに渡って、3月1日、ソウルなど各地の都市で独立宣言と独立万歳を唱えたデモ行進がおこなわれて、その後、朝鮮全土に広がる独立運動に発展してゆきました。
もちろん、当時の日本の政権は帝国主義ですから、植民地の独立を認める気はありません。大弾圧を加えて独立運動を封じ込めました。
柳宗悦はその弾圧に心を痛めたとよく言われますが、「心を痛めた」というそのような表現よりも、おそらく柳は、「憤った」のではないか、それも「激しく」という表現がふさわしいかとおもいます。すぐさま5月の段階で読売新聞に「朝鮮人を想う」という文章を発表し、翌年には雑誌『改造』に「朝鮮の友に贈る」など、その後も継続して日本の弾圧に苦しむ朝鮮民族への想いをつづった文章を社会に向けて発表します。特に「朝鮮の友に贈る」という文章は、発表時に、検閲によって相当の箇所が削られたといいますから、柳の「朝鮮の美」への想いをつづった文章が、当時の体制にとっていかに不穏なものとして刺激を与えたかがわかります。これは柳の美術論が、体制批判の力を持った文章、つまり当時の朝鮮に闇をもたらした日本の帝国主義を批判し、抵抗する側に立つ非常に社会的な文章でもあったということの証明になっています。
そして柳の「朝鮮の美」への想いは、執筆だけにとどまらず、実践としても、三・一独立運動の翌年に、声楽家であった妻・兼子をともなって朝鮮に渡り、講演会と音楽会を各地で開きながら、「朝鮮民族美術館」の準備を調え、東京神田の画廊「流逸荘」で「朝鮮民族美術展覧会」を開催し、のちの24年4月には「朝鮮民族美術館」設立にこぎつけました。
このように、三・一独立運動が起きてから朝鮮民族美術館設立までの5年間、柳の主な仕事は、朝鮮の美についての仕事ということになりますが、柳がそこまでして朝鮮の美にかかわりつづけた理由は、やはり、日本の帝国主義によって朝鮮民族が見舞われることになった闇を、当時の時代が抱えていた世界の闇の象徴として捉えていたからだとおもいます。柳にとって美とは、社会の闇に光を与える、社会性をともなったものでなければならないという思想が、この時点ですでに意識され、のちの民藝運動につながっていくことになります。
資本主義の膨張によって生み出された帝国主義が、旧体制の開化を名目に、旧体制の文化を機械文明によって略奪、破壊してゆきます。そのような状況が世界各地で起こり、略奪のその極まるところがつまりは植民地であり、また、破壊の極まるところがつまりは、戦争であり、第一次世界大戦でした。そして第一次世界大戦後、三・一独立運動をはじめ、アジアでは中国の五・四運動、インドの非暴力・不服従運動と、帝国主義に対する抵抗運動の高まりや、21年7月に中国共産党の結成、22年7月には日本共産党結成、22年12月にソ連成立と、世界は帝国主義の克服をめざす、新たな社会体制を求めて動き出します。
そのような世界情勢の中で柳は、21年1月『白樺』に「朝鮮民族美術館の設立に就いて」という文を発表し、その後24年の「朝鮮民族美術館」設立まで、朝鮮の仕事に没頭しますが、柳はその仕事を通して、アジアでいち早く近代化に成功し、文明先進国の仲間入りをはたした日本帝国が、抑制を知らぬ資本主義と軍国主義によって破滅へと突き進むさまを、朝鮮の植民地政策の中に見いだし、その日本の植民地政策によって苦しむ朝鮮の民衆に心を寄せることによって、「朝鮮の美」を破壊しようとする日本や、同様に各地の植民地の民衆文化を略奪、破壊する列強文明国家の帝国主義に抵抗しようとしたのだと、私はそうおもいます。
そのことは、柳のもっとも有名な文章のひとつ「失われんとする一朝鮮建築のために」という文章に象徴的に現れているかとおもいます。李朝の宮廷「景福宮」の正門「光化門」が、朝鮮総督府の庁舎建設にともなって取り壊されようとする、そのことを批判した文章「失われんとする一朝鮮建築のために」を、22年『改造』の9月号に発表、そして8月末にはその翻訳が朝鮮の日刊新聞『東亜日報』に載ります。当時その文章を読んだ朝鮮の人々が、「光化門」を「朝鮮文化」または「朝鮮民族」に置き換えて読み、柳の訴えに共感したという話は有名です。このように柳にとって、「失われんとする朝鮮の美」に心を寄せることは、すなわち即同時に「朝鮮の民衆」に心を寄せることであり、それは同時に、「朝鮮の美」を破壊してゆく当時の政権を批判し、抵抗する意思の表れだったといえます。
つまり柳にとっての「民衆」とは、資本主義や軍国主義によって抑圧される側の人々のことでした。
朝鮮民族美術館の設立がかなったことで、朝鮮の仕事に一段落がついた柳は、次に木喰仏との出逢いによって「日本の美」についてふりかえる機会を得て、ついに「民藝」の価値を発見するにいたりますが、柳はやはり、朝鮮と同様に、日本の中にも、帝国主義政権によって抑圧される民衆の姿を見たのではないでしょうか。
帝国主義の闇に覆われる世界。そしてその中で苦しむ民衆の救いのため、柳は民藝運動を始めます。それはつまり帝国主義克服のための社会運動でもありますが、民藝運動のその独自性は、単なる芸術運動でも、単なる政治運動でもなく、その双方を両義的に持った、文化性と社会性とが合一、一体となって営まれるところにあるかとおもいます。
たとえば、ウィリアム・モリスの場合、「アーツ・アンド・クラフツ」という芸術工芸運動を展開しましたが、のちに晩年のモリスは、社会主義運動に入り、その活動を展開してゆくことになりました。このことはモリスが、芸術運動家であるだけでなく、産業革命以降の社会が生み出した闇を克服しようとする社会的意志を持った者であったことを示しています。しかしながら、モリスの場合、美術工芸運動と政治運動が切り離されてしまっていたと私はおもいます。たしかにモリスという人物の中では当然、切り離せずにつながっていたのだとはおもいますが、たとえば、モリスは『資本論』の装丁も手がけたということだそうですが、『資本論』の装丁をいくら美しくしたところで、それは美術工芸と政治運動が一体になった、ということにはなりません。じっさいモリスも、そのことはわかっていたからこそ、社会主義活動に入っていったのだとおもいます。
工藝運動と社会運動が切り離されているという、そのように民藝運動と似て非なる運動のもうひとつの例をあげますと、私は、インドの非暴力・不服従運動があるかとおもいます。さきほど、朝鮮の三・一独立運動がインドの非暴力・不服従運動につながっていったということを話しましたが、インドの非暴力・不服従運動の指導者は、いわずとも知れたガンジーですが、ガンジーがインドの独立運動に立ち上がる決意にいたるきっかけが、南アフリカでのアパルトヘイトの差別を経験したことであることは、有名な話です。弁護士として赴任した南アで、有色人種としての差別に苦しむインド人の権利獲得のために指導した運動の成功が、のちのインド独立運動の礎となりました。そのようなガンジーですが、彼はイギリス植民地支配の原質である機械産業への抵抗手段に、手工業の復権ということを唱えました。ガンジーがインド伝統の糸車を回す姿を、皆さんも写真や映像で見たことがあるかとおもいますが、それは産業革命の象徴であり、帝国主義の資本源でもある紡績機械生産に手を貸すことをやめ、元来のインド独自の手工業に立ち返ることによって、帝国主義に抵抗しようという、ガンジーの民衆への訴えでした。
このように手工業の重要性、つまり民衆工藝の復権が、帝国主義時代の闇を晴らす力があるということを、柳やモリスと同様、ガンジーもまた発見し、そのように手仕事が宿している力を抵抗の手段として用いたのだといえます。
そのように手仕事の力を信じたガンジーではありますが、しかしながらガンジーのその工藝への想いは、あくまで一義的には政治的なものだったと私は考えざるをえません。むろん、ガンジーが偉大な政治家、社会活動家であったからこそ、インドは独立を果たすことができました。ですから、ガンジーの糸車を回す姿が、たとえ政治的なパフォーマンスにすぎなかったのだとしても、それはむしろ、手仕事に宿る力が、帝国主義社会を変革する力になりえたということを証明したのだといえます。それでもやはり、ガンジーにとっての民衆工藝は、非暴力・不服従運動にとってのあくまで手段であって、それは柳の「民藝」のような、文化性と社会性の合一と呼ぶには、あまりにも政治的なものであったといわざるをえません。
このように今、二つの例で見てきたように、モリスもガンジーも、「工藝」というものに宿っている、帝国主義にも抵抗しえる力について気づきながら、それでも最終的には政治に行き着いたのとはちがい、あくまで政治とは異なる立場で、社会性を貫き通したのが柳の工藝運動の特色であり、民藝運動の独自性であるかとおもいます。
民藝について話を戻しますと、25年の12月に、木喰仏の研究旅行中の汽車の中で、同行者の濱田庄司と河井寛次郎とともに、民衆の工藝に宿る美と力、その概念を「民藝」と名付け、そして翌年26年の4月に『白樺』に「日本民藝美術館設立趣意書」を発表し、そうして民藝運動が始まりますが、さらに翌年の27年に、同じ白樺同人だった武者小路実篤が編集の雑誌『大調和』に初号から九回にわたって、「工藝の道」を連載します。
この「工藝の道」という文章は、冒頭の「緒言」の中で「日本民藝美術館の設立を急ぐ私は、共に工藝に関する思想の建設をも試みるべきであろう」と柳自身がそう述べているように、民藝の思想や概念を文章として形に表したものですが、その中に「概要」という章があって、それは柳の自問自答の形で、民藝とはいかなるものかをわかりやすく説明しています。その中に民藝における個人作家の社会性について述べているところがあります。
問 個人的作家に何を最も希望するか。
答 何よりも社会的任務の自覚を熱望する。これが個人的作家に今一番欠けている著しい性質である。今の作家はすべてを美の意識から追求する。しかし将来の作家はこれに加うるに社会的意識からの追求がなければならない。そうして後者がなかったら、真に前者の要求が実現される日も来ないであろう。将来の民藝にどれだけ資するか否かによって個人的作の意義は決定されてくるであろう。民衆と没交渉であるかぎり社会的罪悪から脱することはできない。自らを救うことより、民衆と共に救わるるということの方が遙かに意義 が深刻である。近時の社会思想の流れは、いつか工藝家にも、社会的意識を喚起させるであろう。そうして美からのみの追求は、過去のものとして満足されなくなる時が来るであろう。否、真に美を追究する時、誰も民藝の意義に冷淡でいることはできないであろう。
このように、民藝には社会性がいかに大切かということを柳は明確に述べています。特に「民衆と没交渉であるかぎり社会的罪悪から脱することはできない」という言葉は、当時の帝国主義に苦しむ民衆を意識できなければ、自らも社会的罪悪、つまり帝国主義に手を貸し民衆を苦しめる側に在るということから逃れられない、という、柳が民藝運動において追求しようとしたその倫理性をよく表しているかとおもいます。
第一次世界大戦後、時代は新たな社会を求めて、民主化運動や独立運動、社会主義運動など、民衆運動が活発化し、それにともない、帝国政権も進歩政策と引き締め政策を相互におこなってゆきます。たとえば日本でいえば、「民藝美術館設立趣意書」が発表された25年という年は、普通選挙法と共に、治安維持法が制定された年でもあります。しかしその後、世界はまたしても抑制力を失ってゆき、29年の世界大恐慌を経て、日本はひたすら帝国主義、軍国主義の道を突き進んでゆきます。31年に満州事変、32年には五・一五事件、そして33年に国際連盟脱退と、日本では帝国主義の闇がますます深まってゆくのですが、民藝運動はというと、その闇の中を着々と活動を進めてゆき、36年についに「日本民藝館」設立にこぎつけました。ちなみにこの36年というのは、二・二六事件が起きた年でもあります。日本の闇が最も深まった暗黒時代にも、民藝運動はそのように確実に独自の光を灯しつづけました。
もし民藝運動が、モリスのように、社会主義運動に踏み込んでいたら、おそらくこの暗黒時代の帝国政権によってその光を踏み消されていたにちがいないと私はおもいます。政治が権力を振り回す暗黒時代にも、したたかに生き延びて時代の闇に光を灯しつづけるその逞しさこそが、民藝の力でありました。
しかしながら独立運動や社会主義運動など、他の運動が次々と弾圧されてゆくなか、その弾圧を被ることがなかったということは、逆に見ると、帝国主義への抵抗力が弱かったからではないかという見方もできるかも知れません。しかし、民藝運動が打ち建てた美の世界が、帝国主義に迎合したり、暗黒時代からの現実逃避のための美では決してなく、時代の闇に向きあい、抵抗する意志をもった美でありつづけた、そのことを証明しているのが、「沖縄言語問題」であるかとおもいます。
39年の年末から日本民藝協会主催の琉球観光団が沖縄に向かいます。年を越した40年新春の沖縄滞在中に、帝国政権当局の標準語励行による沖縄同化政策に接し、方言としての琉球語までをも撲滅しようとするその行き過ぎた政策を柳が批判し、当局側との論争に発展します。その論争において民藝側の論調は、琉球語の評価のみならず、琉球文化や文学、そして「そもそも日本の標準語とはいかなるものか」という問題提起にまでいたる徹底したものでした。40年の『月刊民藝』11・12月合併号の「沖縄言語問題」特集を見れば、それはじつに圧巻なものです。その中にある、日本民藝協会の名で書かれている「沖縄言語問題に対する意見書」には、この沖縄言語問題を通して、帝国主義に抵抗しようとする民藝運動の意志を読み取ることができます。たとえば次のようなくだりがあります。
沖縄において、この標準語を普及することは、現時日本が支那や満州などに日本語を輸出し、あるいは朝鮮、台湾などに国語を普及しているのとおなじ意味をもち、標準語励行が、とりもなおさずひとつの日本の政治なのであった。この標準語励行の根底にあるものとは、すなわち沖縄に対する半植民地政策のそれにほかならぬ。
かつて帝国政権が朝鮮の光化門を取り壊そうとしたとき、柳が「失われんとする一朝鮮建築のために」という文章を起こして、帝国政権の愚行を批判し、朝鮮民族美術館設立という実践によって、帝国主義に抵抗した、そのような「民衆への想い」と「実践の意志」が「民藝運動」には絶えることなく脈々と流れつづけていることが、この沖縄言語問題への民藝運動の追求心を見ればわかります。
この沖縄言語問題のすぐあと、次に柳はアイヌについて想いをはせるようになります。アイヌもまた朝鮮や琉球のように、帝国政権の支配によって、その独自の伝統文化を破壊され、同化政策によって苦しめられた民衆でした。
41年9月から二ヶ月間、日本民藝館で「アイヌ文化」特別展を開催し、同年の『工藝』106号で「アイヌ織物」そして107号で「アイヌ木工品」の特集を組んで、帝国政権に不当に扱われているアイヌ民衆の文化価値を世に突きつけ、暗闇に眠る世の人々の自覚に訴えています。
しかしこのアイヌ文化を世に問うてからしばらくして、時代は太平洋戦争に突入します。戦時体制の強化によって、民藝運動の内部にも政治的圧力に抗しきれずに妥協する場面も、出てきます。たとえば、このたび不二出版から復刻された『民藝』を読んでいきますと、44年10月号では、「傷痍軍人と民藝」という特集が組まれています。この特集は、軍事保護院の「軍人援護強化運動」の要請を受けるかたちで、民藝が傷痍軍人のために寄与すべき可能性について研究していますが、軍から協力を求められて、それでも傷痍軍人に関心を向けるところが、民藝運動らしいといえば、いえなくもありません。なぜなら、傷痍軍人もまた、帝国主義戦争の犠牲となった民衆であるにちがいないからです。とは言え、おなじ号の誌面に、陸軍大将の戦意昂揚・戦力増強を唱える文章や、軍人援護国民歌と題した「決戦の秋は来れり」という三好達治の詩が掲載されているのを見ると、さずがにその戦時色に目を覆いたくなります。そのような時局のなか、柳は、民藝の原理は「健康の美」という精神運動であり、いかなる時代にも不動であるものだと説き、「かりに平和が明日来ようとも、私たちは同じ準備を整えよう」と民藝運動の同人に時局への迎合を戒めています。このように柳の言動は、沈黙をも含めて、戦時中も少しもぶれることなく一貫していました。
そして45年8月、日本帝国の敗戦により、第二次世界大戦が終わります。
翌年46年の7月、戦後復刊第一号となった『民藝』70号の巻頭に、柳が「民藝の強み」という文章を掲げています。その文章から抜粋して少し読んでみます。
民藝という言葉が示唆するように、私たちは「民」を基礎とする美を説いた。(略)美の領域おいて「民」の価値を強調した主張は他になかった。
急に民主主義の時代が来た。そのために「民」の一字が著しく用いられ、多くの人々の関心を集めるに至った。(略)こういう時代に、民藝論が新しく見直されたのも当然である。
しかし民藝論は時代に左右されて起こったのでもなく、また時代に左右される理論ではない。
私たちは或る時代のために民藝論を主張しているのではない。民藝論には戦前も戦中も戦後もない。(略)時代を超えた規範としての美論なのである。(略)民主時代は「民」の意義を基礎とする民藝美論をどうあってもおこなわねばならぬ。美の領域においてこのことを怠るならどこに美の民主化があろうか。
この世には余りにも変説が多く迎合が多い。時代の流行を追ってゆくのは、信念のない徴である。(略)民藝美論が常に標榜する「健康の美」は、時代を貫いて不変である。(略)この不動なるものを掴み得た所に、民藝論の強みがある。(略)それ故民主時代が衰えたとて、民藝論の本旨に衰えはない。否、益々必要となってくるであろう。
不動の原理に古いとか新しいとかいう性質はない。それはいつでも「永遠の今」の中に在るからである。それ故日に日に新たなのである。(略)この不動の真理によらずば、どんな新しさも、古く過ぎ去るであろう。民藝運動は確実な美を社会に約束しようとするのである。
このように、柳の戦後の第一声は、じつに「民藝の『民』について」を語るものでした。「民」の意義を基礎とする民藝美論のその社会性と不動性とを、戦後民主主義時代に対して宣言しています。
その民主主義の時代も現在、戦後半世紀を超えていますが、現在も民藝運動ははたして「永遠の今」の中に在りつづけているでしょうか。民藝運動は、抑制を失った権力の愚行に苦しめられている民衆の側に在りつづける、その社会性を失ってはいないでしょうか。民藝が社会性を失うとき、それは民藝が民衆を失うときであり、そのとき民藝の美は、単なる美のための美に堕落することでしょう。そして民藝運動も、単なる美術趣味の集まりに落ちぶれるはずです。
現在の世の中はたとえ民主主義社会だとはいえ、かつての帝国主義に似通った、抑制を失った資本主義や軍国主義がいつ息を吹き返すかわからぬ状況です。そもそもかつての帝国主義政権も、その多くは民主主義によって生み出されました。今また民主主義が社会を闇に覆う暗黒時代を生み出さないとは、誰も言えるはずがありません。そのようなときこそ、民藝の美の力、民藝が灯す美の光が必要なときなのではないでしょうか。
先ほどの「民藝の強み」にあった柳の言葉、「民主時代が衰えたとて、民藝論の本旨に衰えはない」その不動の民藝論を信じる者の一人として、私もこれから民藝の道を追いかけてゆきたいとおもいます。
それではこれで、私の「民藝の『民』について」の話は、終わりです。
最後までどうもありがとうございました。
詩人・和寧文化社代表 丁章(チョンヂャン)
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