須田剋太・年譜
1906年(明治39)0歳
5月1日、埼玉県吹上町にて須田代五郎の三男として生まれる。本名は勝三郎。
1927年(昭和2)21歳
埼玉県立熊谷中学校(旧制)卒業。その後、浦和市に在住し、独学で絵を学ぶ。
寺内萬次郎がその才能に注目し、光風会展、官展への出品を勧める。
1936年(昭和11)30歳
昭和11年文展にて「休憩時間」が初入選。
1938年(昭和13)32歳
第2回新文展にて「少女座像」が入選。
1939年(昭和14)33歳
第3回新文展にて「読書する男」が特選。
1940年(昭和15)34歳
紀元二千六百年奉祝展に「苦力」を出品。
1941年(昭和16)35歳
第4回新文展にて「若き男」が入選。
1942年(昭和17)36歳
第5回新文展にて「神将」が特選。
1945年(昭和20)39歳
奈良の新薬師寺に寄寓中に知り合った岡田静と結婚(入籍は55年(昭和25))。
1946年(昭和21)40歳
第2回日展にて「東大寺正面」が入選。
「天平乃会」に参加。「新樹会」結成に参加。
1947年(昭和22)41歳
第3回日展にて「ピンクのターバン」が特選。
このころ西宮へ転居。芦原小学校図画講師、甲陽学院中学校美術講師に就く。
1948年(昭和23)42歳
「転石会」に参加。
マリアの園幼稚園(甲東園)、甲子園学院図画講師に就く。
1949年(昭和24)43歳
光風会を退会し国画会会員になる。
このころ抽象絵画の旗手・長谷川三郎と出会い、彼の理論に共鳴し、以後主に抽象画を制作する抽象画時代に入る。
「会ヴァリエテ」結成に参加。
1950年(昭和25)44歳
三越日本橋店にて個展を開催。「虚無(太陽の子)」ほかを出品。
1952年(昭和27)46歳
現代美術懇談会(ゲンビ)創立に参加。
1954年(昭和29)48歳
第1回現代日本美術展に出品。
1955年(昭和30)49歳
第3回日本国際美術展に出品。
国際アートクラブ関西支部結成に参加。
1957年(昭和32)51歳
第4回サンパウロ・ビエンナーレ展(ブラジル)に出品。
1959年(昭和34)53歳
第11回プレミオ・リソーネ国際美術展(イタリア)、ヒューストン美術展(アメリカ)に出品。
1961年(昭和36)55歳
カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
1962年(昭和37)56歳
西宮市民文化賞を受賞。
1964年(昭和39)58歳
西宮美術協会長に就く。(82年(昭和57)まで)
1967年(昭和42)61歳
西宮市民会館アミティホールの緞帳を制作。
甲子園学院短期大学教授に就く。
1969年(昭和44)63歳
犬養道子著「日本人の記録 犬養木堂」の連載が始まり、挿絵を担当。
1971年(昭和46)65歳
週刊朝日の司馬遼太郎著「街道をゆく」の連載が始まり、挿絵を担当。この頃から具象画制作を再開する。
兵庫県文化賞を受賞。
1976年(昭和51)70歳
吹上町文化功労賞を受賞。
1977年(昭和52)71歳
大阪芸術賞を受賞。
1980年(昭和55)74歳
在日朝鮮人文化総合雑誌「季刊・三千里」21号の表紙絵を担当。以後87年50号(終刊)までつづける。
1983年(昭和58)77歳
「街道をゆく」の挿絵で講談社出版文化賞さし絵賞を受賞。
1987年(昭和62)81歳
7月、司馬遼太郎を介して、おこのみやき店「伊古奈」(東大阪市)に具象画を寄贈し、伊古奈店内のギャラリー(後の「花筐」)にて常設展示。また10月からは「街道をゆく」の原画を同ギャラリーにて展示(この原画はのちに須田の意向により大阪府に寄贈)。
1988年(昭和63)82歳
第17回フジ・サンケイグループ広告大賞を受賞。
5月、アートカフェ「喫茶美術館」(東大阪市)に抽象画、オブジェ、書画などの作品を多数寄贈し、店内にて常設展示。
1989年(平成1) 83歳
埼玉県立美術館に作品を寄贈。
1990年(平成2) 84歳
大阪府および飯田市美術博物館に作品を寄贈。同館(飯田)にて「知られざる須田剋太の世界−抽象画と書・陶−開催。
7月14日、神戸市内の病院にて死去、享年84歳。
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